この電柱は、電話線を通すための電柱で、銅山観光のある坑道から、選鉱池や沈殿池、溶鉱炉のある工場に通されている電話線の電柱で、工場が拡大された明治30年代に建てられた電柱であると推測できます。110年近く建っているということになりますね。まずは、足尾銅山の歴史を簡単に紹介することにしましょう。

 足尾銅山は1550年(天文19年)に発見と伝えられています。1610年(慶長15年)百姓二人が鉱床を発見し、幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されることになりました。足尾に幕府は鋳銭座を設け、銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともあります。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していました。その後一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていました。明治4年(1871年)には民営化されましたが銅の産出量は、年間150トンにまで落ち込んでしまいました。足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年(明治10年)に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出ませんでしたが、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を発見。その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見されました。古河市兵衛の死後、明治38年3月に会社としての古河鉱業の経営となった。という歴史です。

銅山観光から、変電所に行く左に1本、これが1号電柱であります。そして道路反対側に2号電柱があります。

3号電柱は、プレートが落ちてしまっていて、確認はできませんが、日焼けしたプレート跡や、4号電柱との間にあることから、間違えなく3号電柱であると思われます。

4号・5号・6号・7号と30メートル間隔に建てられています。

7号電柱だけ、作業用のステージがあります。またトランスらしきものもあり、未だに稼働しているように思われます。

今は動いていませんが、この大きな工場の通信は、この電柱を通して会話されていたんですね。

足尾は、歴史の宝庫ですね。まだまだ、いっぱい歴史物が出てきそうですね。